言葉に関して    Regarding words

最近は私が言葉に追われているようです。

 

周りを見ると、世界は言葉だらけだなと思っています。

我々は、物事すべてを言葉にしたがっているようです。カオスを耐えるのはなかなか難しいようです。それで、我々が周りのすべてのもの、こと、現象、いべんとなどに言葉をつけようとしています。見るだけは足りなさそうな気がします。ですから、それを言葉化(文字化)して、カテゴリー化して、コード化して、本に書いて、皆に見せて、覚えさせて、こうして考え出したシステムの中に活かせます。人間が作ったシステムの中に生きていきます。

 

そこで疑問になるのは、「システム」という言葉です。

 

実際に観察すると、花は自分自身に「私は花だ」と言ったことを聞いたことがありません。自然の中に生き物同士に何かしらのコミュニケーションが行われているかもしれませんが、調和的のようです。そうじゃなければ、自然に行くとき、癒されたり気持ちよくならなかっただろうね。自分の勝手な感想ですが、生き物たちがお互いに「システム」を教えたりはしないで、ただ存在していることで何らかのORDERをもたらします。木はお花に光合成のやりかたを教えたり、さすがにしないだろう。

 

では、何で人間はそうしているだろうか。なぜ、子供がもうすでにあるパーソナリティを否定し、新しい知識を頭に投げ、世間にふさわしい(とても制限された)ルールにしか縛られないのだろう。感じるより言葉にすることが大事になってきて、結果皆が本当の世界から切られて、自分の世界にしか生きていないわけです。私も例外ではありませんが、今回はそれに気づいています。私はとてもわがままな存在だということに気づきました。それをポジティブでも、ネガティブでも捉えていません。ただ、事実としてだけ「。」。

 

最近、言葉に追われている私は、その言葉を頭に入れるのをできなくなりました。逆に、どんどん外に出していきたいわけです。頭の中に浮かんでいる知識に過ぎてない言葉は実践にできなければ、意味があるのだろうか。意味のない「システム」に、私はなぜ従わないといけないのだろうか。

 

体で感じたくなったことが言葉にするのは無理です。それは、気持ちや言葉以外のものでしか伝えられません。あなたがそれを受け取れるかどうかは私の問題ではありません。しかし、完全に言葉の世界にしか生きていない方には理解しずらいとは思います。なぜかというと、言葉でしか物事をとらえないからです。それは、とても限られた世界だと思います。そして私もその一部です。

 

 

 

It seems that I'm being chased by words these days.

 

Looking around, I think the world is full of words.

We seem to want to put all that is into words. It seems difficult to endure chaos. So we try to put everything around us, things, phenomena, events, and so on, into words. I feel that it is not enough just to look at it. Therefore we put it into words (letterization), categorize it, code it, write it in a book, show it to everyone, make them remember, and use it in the system you came up with. We go on living in a system created by humans.

 

The word “system” then becomes a question.

 

When you actually observe it, I have never heard of flowers telling themselves, "I am a flower". There may be some communication between beings in nature, but it seems to be harmonious. Otherwise, we wouldn't have been soothed or comfortable when in nature. It's my own opinion, but the creatures don't teach each other the way of "system", their existence brings some kind of ORDER.  You wouldn't expect trees to teach to flowers how to do photosynthesis.

 

So why do humans do that? Why is the child denied the existing personality, thrown new knowledge in his head, and being bound only by the rules that are appropriate (very restricted) to the society? It became more important to put things into words than to feel it, and as a result, everyone is cut off from the real world and lives only in their own world. I'm no exception, but this time I'm aware of it. I realized that I am a very selfish existence. I don't see it as positive or negative. However, only as a fact ".".

 

Recently, I've been chased by words, and I can't keep them in my head. On the contrary, I want to get them out more and more. Is it meaningful if words that are nothing more than knowledge in my head cannot be put into practice? Why do I have to obey a meaningless "system"?

 

It is impossible to put into words what you want to feel with your body. It can only be conveyed by feelings and something other than words. It doesn't matter to me if the other can receive it. However, I think it is difficult to understand to those who live only in the world of words. The reason is because they can only grasp things in words. I think it's a very limited world. And I am also a part of it.

 

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Source: https://i.pinimg.com/originals/d9/c8/77/d9c8775f7e0bb14cef81681db293331e.jpg

 

ヨガと私

私って何でヨガをやっているんだっけ?

 

って最近思いました。このブログの最初の段階(2018年)ではヨガをやっていました。いいえ、それより1年間前に、偶然ヨガと出会いました。ヨガの存在をそれより前知っていましたが、そのときの私はヨガにそこまで惹かれませんでした。

人が苦しむ時、その苦労を癒すために人は様々な方向に行ってしまいます。痛みを和らげるのに役立つものが周囲になければ、人は、他の、よりエキゾチックな選択をする傾向があります。私の場合はヨガでした。その前にも瞑想などはしていましたが、ヨガ自体を体験したのは、2017年が初めてでした。自分の悩みで一杯に満ちていた体がとても痛かったのです。なんらか(今はそういえるけれど)の理由で、精神が苦しかった結果、身体も実際の痛みを感じました。私の命を続ける理由がなくなりつつありました。その時、偶然、インドの友達がヨガクラスを紹介してくれました。実際にヨガをやってみたら、体が落ち着いて、頭の中で乱暴に活動していた考えが少しだけ冷静になりました。それだけでなく、ヨガを教えている、やっている人達と出会って、本当に奇跡だと今でも思います。その時の私にとって、命が救われたぐらいのことでした。その人の思考、世界へのアプローチ、周りの出来事への視点などがとても面白いと思いました。いや、面白いだけでなく、その時の私に適していました。省みると、ヨガは実は体を動かす練習のヨガだけではありませんでした。ある意味で、ヨガに関わっている人達のグループに受け入れられた私が圧倒的に嬉しかったのです。ヨガに関すること、命というのはどういうことかということに夢中になってしまいました。もしかしたら、「しまいました」という表現が強すぎるかもしれません。けれど、その時の私にとってそれはとても幸せな時間で、必要だったと思います。それがなければ、今の私はなかったので、感謝しています。

 

ただし、今はヨガへのアプローチが変わりました。ヨガと出会ってから4年が経ちました。この時期は、ヨガをやったり、やらなかったり、辞めたりすることの繰り返しでした。最初はヨガにのめり込みました。私は毎日朝5時に起きてヨガをする習慣を始めました。私はヨガのクラスや志を同じくする人々を探し始めました。ヨガのない日は何かが欠けていると感じたので、私はますますそれに依存し始めていました。やらないと罪悪感を感じました。やらなければ、恐れや不安が戻ってくると思いました。ヨガが私のすべての問題の解決策だと思って、「練習をやめてはいけません!!」という堅苦しい私になりました。ある意味、ヨガは私にとって多くのことからの脱出となりました。

 

そして、3年前にあることが起こるまで、私はそれに気づきませんでした。 それは、その瞬間まで私が押し込もうとしていたすべてのものが逃げ出すパンドラの箱を開いたイベントだったと言えるでしょう。そして、私はヨガとそれに関するスピリチュアルな世界にお別れしました。また、平凡な人間になったと思ったら、それは違いました。自分の恐怖、将来への希望、私の底にあった何もかもが出てきました。これまでの世界に関する知識が逆立ちしました。これまでの私の命の生き方がだめになりました。その「だめ」ということを詳しく見る必要がありました。だから、その通りにしました。けれど、容易ではありませんでした。27年間も押し込まれた私、「私」というより、小さな女の子が叫んでいました。どうすればいいか全くわかりませんでした。

 

しばらくして、私の道はいわゆる瞑想に導かれました。すべてを止めて、もっと深く見なければならない時が来ました。そして、私の思考パターン、最初に、少なくともそれらに気づくようにしようと! 1日5分が私の最初の決心でした。そして、私の奥の恐怖に立ち向かう方法がわからなかったので、その5分でさえ、どんどん怖くなっていきました。しかし、多くのことや人の助けを借りて、私は恐怖の完全性に直面しても、悪いことは何も起こらないだろうと考えました。

ヨガのことも思いだしました。ヨガとともに歩む理由を見つけるのは大変でした。私が今住んでいる地域のヨガクラスの進め方や、出会った先生方の考え方が何だか気に入りませんでした。ヨガに伴うこのスピリチュアルなイメージが好きじゃなくなりました。だから私は自分の外でのヨガに期待するのをやめました。ヨガクラスに参加することをあきらめました。そして、自分自身でヨガをやり始めました。ヨガはもうヨガではなく、私の体に捧げられている時間になりました。そして、ヨガを通して何かになるという考えは、ますます少なくなりました。さらに、本に書いてあるように正確に練習をする必要性もなくなりました。私のヨガには、まだアーサナの練習が含まれていますが、練習は私に完全に適応しています。そういう意味で、もうヨガと呼べないかもしれません。瞑想もそれと同様です。ニルヴァーナ状態に達することへの努力の代わりに、私は今、真理の観察に私ができる限りの注意を払うことの方を優先しています。私の考えや文化的信念によって歪められていない真実。ですから、私が瞑想しているとき、私は心や感情を落ち着かせたり、それを制御したりしようとはしていません。 しかし、それを可能にし、自分の考えが自分を説得しようとしている信念に気づくようにしています。なので、足を組んで座る瞑想もしますが、日常生活への反応、考え方、感情などに一日中注意を払っています。努力はそこまでしません。でも、自分の空想に流されるのに気づくことが一日に何回もあります。ある意味で、こういうことへの注意が今はもう自然に起こっています。そのため、ヨガは助けになるかもしれませんが、私はそれが単なる一つの方法であると思うので、私はヨガにすべての焦点を当てたくありません。 いつか私にとって必要じゃなくなる日が来るかもしれません。だから、例え明日辞めても大丈夫なように今日はヨガをしています。依存せずに。

 

そのようにヨガや瞑想について考えると、私は自由に感じることができます。

 

眼鏡の不思議な感覚

パソコンを長い時間使って作業すると頭痛になります。最近、その頭痛をどうすればいいのかと頭を悩ませて、様々な作戦を試しました。

 

1.20分毎に目をパソコンから他のところに逸らして少なくとも20秒コンピュータを見ないようにする作戦

まだ頭痛が続いていました。しかし、一週間はこの作戦を続けなかったので、もう一回やってみようかと思っています。

 

2.パソコンの画面を暗くする作戦

暗くても、明るくても、変化を感じませんでした。外れ。

 

3.座る姿勢を正しくする作戦

姿勢のことは普段も気をつけているので、問題ないと思います。ただし、やはり床に座って作業をするより、椅子に座る方が気持ちよかったです。でも、頭痛は続いているので、外れ。

 

4.パソコン用眼鏡

今日は初めて、パソコン用メガネを使ってみたので、効果があるかどうかはまだまだですが、つけてみたら不思議なことがおきました。眼鏡を鼻に載せたら、世界観が何やら変わってきました。まるで眼鏡の裏に「私」が隠れていて、安全感が出てきて、安心しました。非常に不思議に思いました。まるで、皆がつけている透明なマスクが実現したような気がしました。子供の頃の私が湧きだして、安心させられました。子供の私と同時に小学校からの辛い思い出も浮かんできたのです。今より若かった頃非常に眼鏡が欲しかったです。その時は少し格好いいという考え方だったと思いますが、眼鏡は必要ないのにバカバカしいと決めつけてそのアイディアを止めました。世界は怖いところだと信じ、眼鏡が怖いところと私の本当の自分の境になるから安全感が出るのではないかと考えています。ずっとつけていたい気持ちが湧いてきています。不思議ですね。いつかその気持ちも溶け込めますね。

 

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アインシュタイン(笑)

参考:Child-With-Nerdy-Glasses-Funny-Image.jpg (1920×1080) (askideas.com)

 

今の瞬間の完全な受入/Complete acceptance of the moment

Whilst listening to this/これを聞きながら…

 

www.youtube.com

 

一人でいることはネガティブなことと見なすことができますが、私の意見では、自分自身を深く発見できるし、自分自身の根底に行くことさえできる大きな機会です。あなたが持つ信念、小さな儚い考え、他人と一緒にいたらそれらに気付かず、後であなたに内なる苦しみをもたらします。一人でいる時は他人のエネルギーに影響されにくいので、大好きですが、同時に、自分にこの広大な孤独を感じさせるのが難しくもあり、それが空虚さをもたらすこともあります。そうすると、他の人と一緒に楽しむべきだという思考が出てきます。それから、私はこの気持ちを完全に感じたことがあるかと自問しています。私の人生のほとんどを通して、今の私の目から見ると、最も困難なことは、起こったことを完全に受け入れることでした。私はいつもある種の不満を持っていました。それがどれほど小さかったとしても、それは常に外の出来事に対する抵抗をもたらしました。そして、抵抗は内面のストレス、痛み、苦しみをもたらしました。私はその時の状況ではなく、どこか別の場所にいたいと思っていました。そして、その気持ちにいることはまったく快適ではありません。だから、幸せな場所にいることを想像してみました。ユートピア
現在の状況を完全に受け入れることは少し難しいかもしれませんが、不可能ではありません。今の瞬間は完璧ではないかもしれませんし、あなたが望んでいた、期待したものではないかもしれませんが、それのすべて見てみると。あなたの期待、願い、それらを手放し、そしてただ現在の瞬間を受け入れます。そして完全に受け入れることは、あなたが今の瞬間に抵抗を持っていないことを意味します。

 

私にもできますか?

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Being alone can be considered a negative thing, but in my opinion it is a great opportunity to discover yourself deeply and even go to the roots of yourself. Your beliefs, small fleeting thoughts, unnoticed when you are with others, but later bring you inner suffering. . I love to be by myslef, because I am then not affected by other people's energies, but at the same times, sometimes I find it difficult to let myself just feel this vast loneliness, which sometimes brings about emptiness. Then I tend to think I ought to have fun with other people. Then I ask myself if I have ever felt this feeling in its entirety. Throughout most of my life, looking through the eyes of my current self, , the hardest thing was to COMPLETELY accept the happening. I have always had some kind of dissatisfaction. No matter how small it was, it always brought resistance toward the outside happening. And resistance caused inner stress, pain, and suffering. I wanted to be somewhere else, not in that current situation. And being in that feeling is not at all comfortable. So I tried imagining myself to be in a happy place, utopia.

 

But, is it possible? It might be a bit hard, but not impossible, to completely accept the current situation. It might not be perfect or what you have wanted, expected, but see all that. Your expectations, wishes, to let go of them, and just accept the current moment. And by complete acceptance I mean you no longer have any resistance to the current moment.

 

Can I do that?

お花が教えてくれた Roža mi je povedala

(Slovenščina je spodaj)

 

お花が私にマインドフルネスを教えてくれました。

 

最近は頭で考えなきゃいけない作業が非常に増えてきたことで、考え事をする時間が多くなりました。コンピュータなどの教材も使うし、使う時に私が別の世界に行ってしまう気がします。ここじゃなくなります。

 

苦しみを感じました。言いきれないほど、体が痛かったです。頭を悩ませて、考えがまるで新幹線が目の前をずっと走っているようです。不安心。

私も人間です。

 

こうして、アパートの部屋の座布団に座って、ぼーっとしていました。そうしたら、この間買ったラベンダーが視界の隅に入ってきました。ラベンダーを全体としてみたら、静かな安らぎの中にいました。何も言わず、自分が「花」だという名前もつけないで、ただただそこに「います」。部屋を全体として見て、中の全てが静かでした。その瞬間に私の中もしーんってなりました。

 

考えてみたら、人間以外のすべてが静かではないかと思いました。宇宙は非常に静かなところではないか。宇宙に「宇宙」という名前をつけたのは、われわれ人間です。

 

人間として上限づけられています。この体の外に見えるものは実は内面から見て、それによって見ているものが変わって行きます。

 

わたしはロボットではない、

わたしは機械ではない、

気持ち、感情のあるものです。

誰にもあって、当たり前なのに、タブーのように捉えています。誰もが抱えている気持ちをマスクの後ろに隠して、私は強いと思いながら、頑張って行きます。自分にもそういう側面があるのを認めたくありません。

 

病気。

 

 

人は様々な世界観、いわゆる、世界を「様々な目」で見ています。「目」というと、実は内面です。自分のマインドセット(視点)によって、経験を味わったり、起きることに意味をつけたり、嫌なことは苦しんで、楽しい時の幸せを笑顔で見せて、その全てが人間です。苦しみの中で楽しむ。楽しみの中に苦しむ。考え、それに反応するのは感情で、感情が体に様々な形のように響きます。周りに起きている世界をみることから、シチュエーションを判断してしまいます。その判断がもしなければ、どんなシチュエーションが起きても、反応はしません。ある体験が正しいか正しくないか、いいか悪いかというの判断を全部止めにしたら、どうなるだろう。最初は、難しいです。判断なしの観察自体が難しいです。なぜなら、われわれは考えや感情に騙されるものですから。

誰かが道を歩いているところを想像してみてください。その人が何もしなくても、我々が怪しいと思ったら、何気ない通行人がすぐに何かしらの犯罪者になってしまいます。そう考えると、やはり我々が見ている外の世界が、人によって違うし、内面が実は外面と一緒だと分かります。どういうことに集中するか、世界を全体、それとも細かい部分として見ているか、十人十色です。

 

 

お花に「今ここにいる」って教えられました。この世が美しい!私の中に何が起こっても、美しいです。

 

 

Roža me je naučile, da sem pozorna.


V zadnjem času se je obseg dela, pri katerem sem primorana uporabljati predvsem levi del možganov, tako povečal, da so moje misli pogosto neobvladljive. Veliko uporabljam tudi računalnik, in ko ga uporabljam, se mi zdi, kot da odidem v drug svet. Ni me tu.


Težko je ubesediti, bolečina v telesu, nenehno razbijanje glave, misli se zdijo, kot bi pred mano neustavljivo drvel vlak. Nemirnost.

 

Tudi jaz sem človek.

 

Ko sem tako sedela na zabuton-u* (glej sliko) v stanovanju in sem strmela v prazno. V kotiček očesa se mi je narisala sivka, ki sem jo kupila pred dnevi. Ko sem jo zgolj opazovala kot celoto, sem občutila popolen mir. Sivka nič ne reče, sebe ne poimenuje kot "rožo", temveč samo in zgolj "je". Ko sem se ozrla v preostali del sobe sem zopet opazila tišino. V tistem trenutku je tudi znotraj mene postalo tiho.

 

Ko sem premišljevala sem se spraševala, ali ni vse razen ljudi v tišini? Ali ni vesolje zelo tiho? Poleg tega smo mi tisti, ki smo ga poimenovali "vesolje".

 

Pogojena sem kot vsi ljudje. To kar gledam zunaj svojega telesa, dejansko gledam od znotraj, in to, kar vidim, se spremeni glede na notranje dogajanje.

 

Nisem robot,

nisem stroj,

imam čustva in občutke.

 

Menim, da so čustva nekaj najbolj normalnega, vendar jih jemljemo kot nekakšen tabu. Za masko skrivamo svoje občutke, ki jih imajo vsi ljudje, in se trudimo, misleč, da smo močni (brezčustveni). Večkrat si ne želimo priznati, da je tudi to eden izmen naših aspektov.

 

Bolezen.

 

 

Ljudje imamo različne poglede na svet, lahko bi rekla, da gledamo svet z "različnimi očmi". "Različne oči" so pravzaprav različne notranjosti. Glede na naš način razmišljanja se odvaja naše doživljanje, dajanje pomenov dogajanju, trpimo ob nam neprijetnih stvareh, ko se imamo lepo to srečo kažemo z nasmehom. Vse to je del človeskosti. Uživanje znotraj trpljenja. Trpljenje znotraj veselja. (Najprej je) misel, za njo pridejo čustva in le ta imajo direkten vpliv na fizično telo. Situacije presojamo iz našega pogleda na svet. Če tega pre/obsojanja ne bi bilo, ne bi reagirali, ne glede na situacijo. Kaj če bi prenehali z ocenjevanjem izkušenj, kot dobre ali slabe, kot pravilne ali napačne? Sprva je težko. Opazovanje samega sebe brez presoje je težko. Ker nas prevarajo misli in občutki. Predstavljajmo si, da nekdo samo hodi po cesti, in se nam zdi sumljiv, tudi če ničesar ne naredi, naključni mimoidoči hitro postane nekakšen zločinec. S tem v mislih, je zunanji svet, ki ga vidimo, za vsako osebo drugačen. Vse je v tem, na kaj se osredotočamo, ne glede na to, ali gledamo na svet kot na celoto ali se soredotočamo na majhne dele, 100 ljudi 100 čudi.

 

Roža me je opomnila na "tukaj in zdaj". Svet je čudovit! Ne glede na to, kaj se dogaja v meni, je čudovit.

 

 

 

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*Zabuton (povšterček na katerem se na Japonskem sedi pri mizi)

何もかもがなくなったら(if everything were to disappear)

(日本語は英文の下にあります)

 

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Helix planetary nebula - らせん星雲


Have you ever imagined everything to be gone?
What if everything we know would disappear?
No trees, and no nature itself,
no family, no people even,
there would be no clouds, no sky, no sun, no stars.

When I imagined that I started crying like a child.
I would have no feelings, my appearance, my name, my role, nothing.
'Even no "me"?' I questioned myself. Then I cried aloud and tears coming out as two rivers.

 

 

 


                                                          …silence…

 

 


"Then what remains?" I thought.

If I tried to imagine the nothingness of everything, "something" was in it.

What is that?

I felt like it was there all the time watching. It's been around for the whole time, and it seems like it's been watching or maybe just purely existing.


Isn't the world we see as a fact just our "perception"?

Our facts may not be true to someone else.

When you think about it like that, it feels like your head is expanding.

 

 

 

                                                          …silence…

 

 

If I stayed like that for a while, I felt gratitude and calmed down.

 

There is meaninglessness to this world. Nevertheless, we are still alive.



何もかもがなくなったらと想像してみたこと、ありますか。
知っているすべてがなくなったら、どうなるのでしょうか。
木々がない、自然自体がない、
家族はいない、人々もいない、
雲もない、空はない、お日様もいない、星もない。

と想像してみたら、子供のように泣きだしました。
気持ちもない、私としての姿、名前、役割、何もない。
「私」もいないの?ってなりました。すると、声を出してもっと激しく涙が出ました。


                 

 

 

                  …沈黙…

 

 


そうしたら、何が残るのか?と考えました。

想像してみたら、「何か」がその中にありました。

それは何?

ずーっとそこにいて、見ているような気がしました。

ずーっと、永遠まで存在していて、見てきてくれているような、あるいは、ただの存在かもしれません。


我々が事実として捉えてる世界は、ただの「捉え」ではないでしょうか。

私達の事実は他の誰かにとって事実じゃないかもしれません。という風に考えると、頭が広がるような感じになります。

 

 

 

 


                  …沈黙…

 

 

 


しばらくそのままだったら、感謝が湧いてきて、落ち着きました。

 

この世の中には無意味さがあります。それにかかわらず我々が生き続けています。

新しい世界観に扉が開けられた

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今日はアパートのビルの隣にある芝生のど真ん中の小道を見つめていました。そうしたら、人間の道、言い換えると、人生の道って、真っすぐの線形ではないことに気づきました。その思考のある人も当然いますが、真っすぐな道だと考えると周りの物事に気付けなくなってしまうことがあります。真っすぐではないと、広くて永遠に続くのではないかと思いました。というのは、様々なプロセス、人間を見ている我々の視野、何もかもが全体の一部です。そうすると、どうなるのか。

例えば、見捨てられた牧草地を想像してみました。そこには、数えきれないほど花々があって、植物の種類も多様ですね。それを全体的に見ると、美しいし、個々のそれぞれの花もきれいです。そこで、一つの花に集中しても、どれほど夢中になっても、芝生の成り立ち、働きは分かるわけがないと思います。けれど、全体を見てみたら、その中身のすべての相互関連性に気づくことが出来ます。私は芝生だけを見つめているわけではなかったけど、世界と何もかもをホリスティックを見るとそのなかの物事の間に相互関連があると把握出来ました。

このような思考が流れていた時、私はちょうど自転車に乗っていたので、頭の中のことをすぐにメモ出来ませんでした。従って、その瞬間に思考の流れを今全部思いだせる自信はありませんが、覚えていることを書いてみます。

では、私は相互関連性があると分かったら、次にどういうことを考えたのかを説明してみます。

世界中には様々な科学がありますね。通常科学はある分野を中心に研究や調査を行っています。けれど、人間の身体の仕組みみたいに、例えば一つの筋肉だけに注目すると、体全身の働きが分かるわけはありません。または、病気の症状だけに集中すると、その病気の全ての要素を見過ごしてしまいます。従って、それぞれの現象を一方的に見ると、どれほど研究や観察をしても本当の理解までに導かれることはないと個人的に思います。もう一つ、興味深いと思ったことは、それぞれの定義、特に人文科学の中で、その相互関連性(すべての物事が繋がっていること)があるため、的確ではありません。そこで、それぞれの現象に限界(限定的な定義)をつけようとしても時間の無駄遣いだと思います。だから、私にとって今日の思考がどういう学びを起こしたかというと、毎日見ているすべての物事、出来事には繋がりがあるということでした。自転車に乗っていた私が具体的にそれをどう感じたかは言葉で説明しようとしても完全には出来ません。

言葉にすると、

 周りにいた人々を他人として捉えるのではなく、皆が身近な生き物だと感じ始めました。入ったことのない部屋に入るときにドアを開けると空間が広がります。それと同じような新鮮な気持ちで、同様人間に関して同情が湧いて


きました。皆がまるで家族のようです。心が開いたような感じになりました。その後は、目の前の景色、例外なくそのすべてが美しいと感じました。

 

という経験でした。この状態はまだ続いていました。外側から見たら、別に変わりはないけどね。けれど、内面には変化がありました。その変化によって私にとって世界観が変わりました。