ヨガと私

私って何でヨガをやっているんだっけ?

 

って最近思いました。このブログの最初の段階(2018年)ではヨガをやっていました。いいえ、それより1年間前に、偶然ヨガと出会いました。ヨガの存在をそれより前知っていましたが、そのときの私はヨガにそこまで惹かれませんでした。

人が苦しむ時、その苦労を癒すために人は様々な方向に行ってしまいます。痛みを和らげるのに役立つものが周囲になければ、人は、他の、よりエキゾチックな選択をする傾向があります。私の場合はヨガでした。その前にも瞑想などはしていましたが、ヨガ自体を体験したのは、2017年が初めてでした。自分の悩みで一杯に満ちていた体がとても痛かったのです。なんらか(今はそういえるけれど)の理由で、精神が苦しかった結果、身体も実際の痛みを感じました。私の命を続ける理由がなくなりつつありました。その時、偶然、インドの友達がヨガクラスを紹介してくれました。実際にヨガをやってみたら、体が落ち着いて、頭の中で乱暴に活動していた考えが少しだけ冷静になりました。それだけでなく、ヨガを教えている、やっている人達と出会って、本当に奇跡だと今でも思います。その時の私にとって、命が救われたぐらいのことでした。その人の思考、世界へのアプローチ、周りの出来事への視点などがとても面白いと思いました。いや、面白いだけでなく、その時の私に適していました。省みると、ヨガは実は体を動かす練習のヨガだけではありませんでした。ある意味で、ヨガに関わっている人達のグループに受け入れられた私が圧倒的に嬉しかったのです。ヨガに関すること、命というのはどういうことかということに夢中になってしまいました。もしかしたら、「しまいました」という表現が強すぎるかもしれません。けれど、その時の私にとってそれはとても幸せな時間で、必要だったと思います。それがなければ、今の私はなかったので、感謝しています。

 

ただし、今はヨガへのアプローチが変わりました。ヨガと出会ってから4年が経ちました。この時期は、ヨガをやったり、やらなかったり、辞めたりすることの繰り返しでした。最初はヨガにのめり込みました。私は毎日朝5時に起きてヨガをする習慣を始めました。私はヨガのクラスや志を同じくする人々を探し始めました。ヨガのない日は何かが欠けていると感じたので、私はますますそれに依存し始めていました。やらないと罪悪感を感じました。やらなければ、恐れや不安が戻ってくると思いました。ヨガが私のすべての問題の解決策だと思って、「練習をやめてはいけません!!」という堅苦しい私になりました。ある意味、ヨガは私にとって多くのことからの脱出となりました。

 

そして、3年前にあることが起こるまで、私はそれに気づきませんでした。 それは、その瞬間まで私が押し込もうとしていたすべてのものが逃げ出すパンドラの箱を開いたイベントだったと言えるでしょう。そして、私はヨガとそれに関するスピリチュアルな世界にお別れしました。また、平凡な人間になったと思ったら、それは違いました。自分の恐怖、将来への希望、私の底にあった何もかもが出てきました。これまでの世界に関する知識が逆立ちしました。これまでの私の命の生き方がだめになりました。その「だめ」ということを詳しく見る必要がありました。だから、その通りにしました。けれど、容易ではありませんでした。27年間も押し込まれた私、「私」というより、小さな女の子が叫んでいました。どうすればいいか全くわかりませんでした。

 

しばらくして、私の道はいわゆる瞑想に導かれました。すべてを止めて、もっと深く見なければならない時が来ました。そして、私の思考パターン、最初に、少なくともそれらに気づくようにしようと! 1日5分が私の最初の決心でした。そして、私の奥の恐怖に立ち向かう方法がわからなかったので、その5分でさえ、どんどん怖くなっていきました。しかし、多くのことや人の助けを借りて、私は恐怖の完全性に直面しても、悪いことは何も起こらないだろうと考えました。

ヨガのことも思いだしました。ヨガとともに歩む理由を見つけるのは大変でした。私が今住んでいる地域のヨガクラスの進め方や、出会った先生方の考え方が何だか気に入りませんでした。ヨガに伴うこのスピリチュアルなイメージが好きじゃなくなりました。だから私は自分の外でのヨガに期待するのをやめました。ヨガクラスに参加することをあきらめました。そして、自分自身でヨガをやり始めました。ヨガはもうヨガではなく、私の体に捧げられている時間になりました。そして、ヨガを通して何かになるという考えは、ますます少なくなりました。さらに、本に書いてあるように正確に練習をする必要性もなくなりました。私のヨガには、まだアーサナの練習が含まれていますが、練習は私に完全に適応しています。そういう意味で、もうヨガと呼べないかもしれません。瞑想もそれと同様です。ニルヴァーナ状態に達することへの努力の代わりに、私は今、真理の観察に私ができる限りの注意を払うことの方を優先しています。私の考えや文化的信念によって歪められていない真実。ですから、私が瞑想しているとき、私は心や感情を落ち着かせたり、それを制御したりしようとはしていません。 しかし、それを可能にし、自分の考えが自分を説得しようとしている信念に気づくようにしています。なので、足を組んで座る瞑想もしますが、日常生活への反応、考え方、感情などに一日中注意を払っています。努力はそこまでしません。でも、自分の空想に流されるのに気づくことが一日に何回もあります。ある意味で、こういうことへの注意が今はもう自然に起こっています。そのため、ヨガは助けになるかもしれませんが、私はそれが単なる一つの方法であると思うので、私はヨガにすべての焦点を当てたくありません。 いつか私にとって必要じゃなくなる日が来るかもしれません。だから、例え明日辞めても大丈夫なように今日はヨガをしています。依存せずに。

 

そのようにヨガや瞑想について考えると、私は自由に感じることができます。