あなたへ~

これは、最近考えていた話題です。我々はヒトとどう接していますか。周りの人との関係を咲かせることには何が必要ですか。考え込んでみたら、次の言葉が出てきました(英語はその下):

 

「過去や偽装を通して見ることができるはずです。 私は自分自身に問うべきなのは、「この人と一緒にいるとどう感じるか」という?あなたの歩が私のと同じ道を歩んでいるのは、このつかの間であったとしても、私たちが出会うことにお礼を申しようもありません。私はその時間を偏見のために使いたくありません。私はあなたを見て、あなたの有様。自分自身の脆弱性を守るために使用しているすべてのファサードを捨てて、あなたの脆弱性を見てみます。 その一瞬。 将来何が起こるか考えないようにしよう。 あなたの存在は、あなたの口から出てくる各言葉よりも多くを表しています。 言葉は本当の意味の限られた表現ですから。あなたと出会えるのはそこだけです。努力しなくていい。 存在との融合。」

 

This is a topic I've been thinking about recently. How do we interact with people? What is needed for relationships with people around me to flourish? When I pondered, the following words came out:

「I should be able to see through the camouflage, through the past. I should ask myself, how do I feel about this person? Even if it's for this fleeting moment that your steps are on the same path as mine, I am more than grateful we happen to meet. I don't want to be using that time for prejudice. I will try to look at you, just as you are, throwing away all the facade I use to guard my vulnerability and look at your vulnerability. In the moment. Trying not to think what might happen in the future. Just your being expresses more than any word coming from your mouth. As the words are a limited expression of the real meaning. Only there I can truly meet with you! No effort. Merging with being.
...I feel.

 

これは私の考えだけかもしれません。

 

小さな幸せの瞬間を贈る出来事から~!

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今日は小さな出来事がありました。完全に普通なことですが、私の心がちょっとした幸せの気持ちになって、残っていた一日をより明るくしました。その出来事が次のどんなことだったか、説明しましょう。

 

15:30分。普段通りに(その普段通りは少し変えたい所なんですが)、何かしらの用事で実家までの電車に遅れそうでした。電車が発車するのは15:45分。駅まで行く街内バスは少なくとも私の視野から隠れたため、駅まで走ること以外はありませんでした。15:40分、走るのが、ゆっくりなジョギングになりました。後ろにいるカップルの独りが、「やばい!」と私の故郷の名前を叫んで、駆け出しました。私も雷撃されたように、彼女の跡につけ始めました。最近忙しくて(ただの言い訳かもしれませんが)、運動は全くしていない私が、彼女を追いかけたのに、その姿が目からどしどし消えてしまいました。電車の居場所はもう既に知っていたけど、そこに着いたら、空っぽの鉄道しかありませんでした。「なぜ!?ちょうど15:45分なのに」と思いながら、遠くに電車の後ろの窓を見つめていました。その窓に笑われているようでした。近くにさっきのおねえちゃんも絶望した顔で電車のスケジュールの掲示板を確認していました。残念だと思い、どこ行けば暇つぶしできるのでしょうかと考えました。カフェはもう行ったし、お腹がすいていないし、駅内の床に座ったら臭かったし、バウ亭は日光が強くて暑かったし…結局は電車のベンチに座ることにしました。じゃー、何をしようかなと思い、携帯の電池が、15パーセントしかないことに気づきました。携帯が駄目だから、かばんの中からノートを出しました。今日は快感帯外のことをしましょう。私が子供の頃に好きだったこと、運動などを書いておこうと思いました。これからはそれらをやってみようと決めました。

 

…20分後…

 

でも、、、あと15パーセントが残っているから、ちょいだけ、フェースブックを覗こうと決めました。あまり使っていませんが、あることが気になりました。それを探す途中、ある友達の投稿が目に入りました。その人の投稿を走り読んでお母さんに何か大変なことがあったと思った瞬間、「へーーーーー?!?!」とそのまま(日本語で)大声で言ってしまいました。気がついたら、隣の女の子が私を見ながら、爆笑していました。そうだ!ここは日本じゃないし、ここの人が「へー」というオノマトペを使わないし…しかし、彼女の笑った顔をみたら、自分も笑い出しました。その投稿を読むことにのめり込んでいたから、周りの世界のことを完全に忘れてしまって、自分なりのままで反応しました。結局、それが二人の人の顔に笑顔を描きました。後で、読み続けたら、友達のお母さんが大丈夫だということが分かって安心しました。バスの時間になったら、心が満ちていたまま、ベンチから離れました。

ジャガイモ掘り

今日は友達の実家に行きました。実家はアルプス山脈の山元で村のすぐ近くにある美しい山をじっと見つめることが出来るところです。ゆったりとした環境の中、麗しい家。父母からのほのぼのとした扱いが、まるで自分がもう一人の娘のよう。訪れる旅に、快く受けいれてくれます。

 

友達と森の散歩から家に着いたら、父母と近所の子がじゃがいも掘りをしていました。友達が疲れた顔をして、もうシャワー浴びて休もうと。だが、心の中がやりたい気持ちになって、外に手伝いに行きました。久しぶりにこういうことをやっているなぁとにっこりと自分に微笑みました。数年間前、両親に頼まれたら、答えが必ずの断りでした。それは恐らく、子供の頃、家の外で無理やりに手伝わせたから、そういう仕事に関して嫌気が差してしまったからです。今回は楽しめながらジャガイモを土から掘っていました。体も動かして気持ちよかったのです。これが「カルマヨガ*」なのかと思いました。自分が食べるものを自分の手で作るなんて、素敵だなぁと思いました。疲れるというのもありますが、疲れるからこそ終わった後の食事がより美味しく感じます。もー、年寄りの考え方なんだろう(笑)言うまでもなく、最近少し考え方が変わったかもしれません。いい意味で~!

 

このように小さな事で自然と接することが出来て、感謝を感じます。

 

*カルマヨガは「完璧への道としての無私の行動の規律」ということで、具体的に家事や片付けなどをするという。それはインドのアシュラム(ヨガを勉強するところ)ヨガの先生が言ってくださいました。

 

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ジャガイモ掘り

 

何もかもがすべて変わって行く

これまで様々な動画を見たり、多様な本を読んできました。様々な所にこのような文が書いてありました:

 

「何もかもがすべて変わってゆく」!

 

頭に、金切り声。

胸に、心が刺されて、ピリピリのような痛み。

 

その文は何回も聞いて、読んだこともいくつかあります、

 

                  が…

 

腑に落ちないとやはり把握しませんね。私には、家族があります(そこまで当然なことではないと思います)。両親二人、おばあちゃんと弟。大学に行くまで弟とまだ実家に住んでいましたが、長い間大人3人しかいません。家というのはどれだけ変わってきても、思い出がそこに残っています。帰省するたびに郷愁の気持ちが湧きだします。幼い頃からの気持ちがあの場所に思い出としてくっついています。そこに閉じ込められているような気がします。私の子供の時からの写真とかを見ると、儚さを感じすぎて、たもとを絞るほど涙を流しますよ。その意味は不明だけれども。

 

最近、ちょっと分かったような気がしますが。忍ばせた声で「変わってほしくない!」というのを耳にしましたから。やはり、大人になるとお母さんのスカートに張り付くのは…子供のこうした気持ちはよく分かりますが、ずっと家に残っても、いつか変わって行きますよ。安心させてくれる人がそばにいるのもいつか変わってしまうかもしれません。

 

「一人で自分の心を安心させることが出来ますか?」

 

おっと!嵐を呼びました(笑)

変わってほしくないと抗しても、変わって行きます。何も出来ません。それが事実だから。大事な人が目の前からいなくなること、住みかが他国になること、社会的地位が巡り巡ること、周りの環境が二秒も同じじゃないこと…それを自分に納得させないといけないというより、受けいれたほうが人生を安楽にしてくれます。それはたぶん、

 

「手放す」という。

 

ただ難しいのは、手放すの仕方は分かりません!(´;ω;`)ウゥゥ

 

 

 

素足で森へ

今日は森へ足を運ぼうと決めました。

実家の玄関を出たら、素足で行こうかと思いました。子供のようなワクワクさが湧いてきて、スリッパが足から飛んでいきました。我が家のすぐ後ろに森林地が広がっています。そこに私の好きなところがあります。森と話せる所。

 

出発したら、あらまぁ、うちの猫、二匹が跡をつていました。目を細くし、「いいやろ~」と歩き続けました。足元が痛いから、石子を踏まないように目を地面に落としながら森に入りました。いきなり、涼しい空間に立ち入った気がしました。地面の一面落ち葉敷き詰められたようでした。歩きやすくなりました。やはり、多様の地面を足元で感じながら歩くのが気持ちいい~!近所迷惑にならないようにできるだけどしどし歩くのが辞めました。背伸びをしているように両側から林道に草藪の枝が伸びられていました。避けようと思ったら、体全体がお土産みたいにクモの巣に包まれてしまいました。焦りながら「家を破ってごめんなさい」とクモさんに謝って、進みました。大都会が忙しいと思ったら、そうでもないですね。どこでも見ても、耳を澄ませば、森の住民たちがそわそわしていました。それにしても、周りが快い静けさ。

 

 

猫たちが「もういい」と鳴き、地面に倒しながら…やっとたどり着きました。目の前に木々が竹のような姿勢で谷から空を届けるように真っすぐに生えます。ちんちろりんが一期に止みます。風に動かされる葉っぱ、遠くからの鳴き声しか耳にしません。

そこは、静寂!心にも深くまで染みました。とても癒されました。

 

変わりがないのかなっと。気がついたら、前得々に立っていたおじいさんの木の位置に切り株しか残っていませんでした。しばらく前まだ話しあったり、お互いの"幹"に寄りかかったりしていたのに。ため息をつきました…当然だけど、周りは束の間に変わりつつありますね。言葉で表すと「浮世」、「無常」というのを感じたのだろう。切り株の上に座り、周囲に集中しました。目を閉じて、おじいちゃんの木に感謝を言おうとしていましたが、猫たちがせかせかして、私のひざに飛び出したり、座ったり、鳴いたり、落ち着けませんでした。伝いたかった言葉を言いつくしたら、「よーし、帰ろうか」と。切り株のそばにあった切り落としを取って行きました。

 

森の入り口に足を止めて、森に向かいました。輪を描きながら、手を三回上がって、「ありがとう」と感謝しました。家に近づいたら、猫たちが大喜びして走り出しました。ふふ~!

 

 

一瞬失われた私

最近、修論の作業でとても忙しくなってしまいました。まるで忙しさの意味を今まで知らなかったようだ…コンピュータをずっと使うのはなれていない私は丸一日ずっとコンピュータの前じーっとしています。長ければ何時間も椅子から離れずに。長すぎてたら、頭や目が痛くなり、正気付いたら呼吸が息切れするというように身体が緊急通報してくれます。頑張らなきゃいけないと思い込んで、無意識にそうやったら、頭が回らなくなってしまいました。

 

「何回も見たらいつもそこに座ってる。もう、根っこが生えたんじゃない」

とフラットメイトに言われました。

 

自分から離れていったことに気づかせました。私が生きていける基本的なことも見捨ててしまいました。それに気づいたら、瞬く間にコンピュータから手放しました。そして、外に行きました。周りに自然が多く、足を伸ばすため散歩しに行きました。癒されたぁぁ。何が起こっても、私の命に別条がない状況だったら、行き詰くなるまではもうしません。その時は自分を大事にしないと誰も私を大事にしません。だから、紅茶飲みたくなったら飲めばいい、最近生えたアボカドの木と話したくなったら話せばいい、無けなしのコーヒー(大体コーヒーのちょっとした味がする牛乳)を作りたかったらつくればいい、日本語での記事を書きたくなったら、書けばいいし。こうした凡々なことに癒されます。それがちょっとした幸せなのです。今の私にそれが一番大事なのです。

Eat, pray, love - 真実

この間、『食べ、祈って、愛をして』という映画を再見しました。何回目だっただろう。もう数えられないと思います。それにしてもいつも違う言葉に引っ張られます。こんかいは次の言葉をシェアしたかったのです。
 
In the end, I've come to believe in something I call 'The Physics of the Quest.' A force in nature governed by laws as real as the laws of gravity. The rule of Quest Physics goes something like this: If you're brave enough to leave behind everything familiar and comforting, which can be anything from your house to bitter, old resentments, and set out on a truth-seeking journey, either externally or internally, and if you are truly willing to regard everything that happens to you on that journey as a clue and if you accept everyone you meet along the way as a teacher and if you are prepared, most of all, to face and forgive some very difficult realities about yourself, then the truth will not be withheld from you.
 
真実は一つだけでなく、人がいる数と同じ数だと思います。自分の真実をどうやって自ら探しますか。自分に直面して許してそのすべてを受けいれることがとてもとても大事で、一番難しいと思います。やって行くうちにいつかはわかると思います。生きていくことは、今の私にとって、体の感覚や気持ちに耳を澄ませることです。色んなことを厳しくても教えてくれるのです。ありがたい~!
 

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主人公が象と出会ったシーン