オイリュトミー

最近、一人で過ごす時間が増えてきました。最初は、苦しい思いを感じましたが、座ってその気持ちに時間をあげたら、本当は問題がなかったことに気づきました。孤独な気持ちがまだたまに湧きだしますが、友達として感情をそのままにし、その存在に場所(場、空間、認識、それら全部の意味)をあげると、遅かれ早かれ去ります。だから、一人でいると孤独の意味が多く、違うことが分かりました。今だと、一人でいる時は逆に様々な意味で楽しいです。自分と向き合うこと、自分の思考、考えを観察することや、中だけでなく外のことにも注目を払うことが出来るから、生きることの意味は少しずつ分かってきます。その美しさ、その生き生きさと同時に物事にますます敏感になって行きます。自分の体。思考の働きや成り立ち。考えに感情がすぐに応じる隙間にも気づいていきます。肌を触れる風がどのようなストーリーを運んで来るのか。気を深く見つめると、まるでコミュニケーションをとっているかのよう。鳥のピョンピョンと小さな体の動きに笑わせられる。雲を見てると、なんと微妙な形をしているのだろう、山みたいに巍然です。車の動く音も不思議に思うようになります。

とにかく、様々なことに気づいていきます。癒されたり、イライラしてしまったり、存在していることも知らなかった気持ちも自然に迸ります。そのうち、(私の場合だと)やりたいこともが溢れ出ます。それは環境に応じた形で現れるというか、表現します。大体、アート、言い換えると、芸術と繋がります。お箏が身近にあった時は、色んな弾き方でどのような音が出るか試したり、自分なりのメロディーを通して巨大な気持ちを外に出したりしました。引っ越しで、使える楽器が周辺から無くなって、声を出してみたりしました。寝る前に、体が気持ちいいと感じる音、または、身体を心地いい状態にさせる音を口から出してみたりしました。つい最近は、鳥肌になる音楽を聞くと、その瞬間すぐに踊りたくなります。音に合わせて、体が動きます。できれば、自由に何でも試します。バレェダンサーのようにジャンプしたり、手で綺麗に見える動きをしたり、赤ちゃんみたいに床で体の柔軟さを試してみたりします。音楽に自分の解釈的な拍を合わせます。しかし、音楽で音楽家が言いたいことに限りません。ただただ、音だけに合わせて、準備はせずスペースを使って、自分を自由に表現します。動きには制限が全くありません。

それをしながら、できればすべての注目を体に払います。身体の動き、それぞれの動きによって、痛むか癒されるか、感じ方を観察します。すると、なかなか楽しいです。こんな風に踊ると、頭が静かになって、踊り終わると体が落ち着いています。でも、私落ち着くためにやるわけではありません。何かのためにすると、やる意味がなくなります。なぜなら、自分の体にさせたい状態をイメージする期待が入ってくると、踊りが制限されるからす。

今日はたまたまシュタイナー教育の本を読んで「オイリュトミー」という言葉と出会いました。聞いたことがありましたが、実際にどういうことを示す言葉かは知りませんでした。ウィキペディアに「オイリュトミー(Eurythmy)とは、オーストラリアの親密思想家、教育家であるルドルフ・シュタイナーによって新しく創造された運動を主体する芸術である」と書かれてあります。しかし、オイリュトミーについて読んでも実際にどんなものか想像がつかなかったのです。それで、ユーチューブで検索を作戦!次の動画が非常にいいと思いました:

 

パフォーマンス:

www.youtube.com

オイリュトミーの実地の説明:

www.youtube.com

私がやる運動、あるいは、踊り方がオイリュトミーだとは言えませんが、シュタイナーの思考と類似するところがあることが確かだと分かりました。同様だということは面白く思いました。特に、踊っている人とはどういう変化が起こっているのかを観察するのが楽しいと思いました。

pesnitev 詩

Ujeta v okove tradicionalne družbe,

za zapahi rojstne hiše,

kaj hiše, ne "materialno",

temveč človeškega razmišljanja,

ki izsušuje otroško domišljijo in omejuje živahnost,

skuša kontrolirati življenje,

ostanek pa pahne v telo robota,

ki poslušati mora:

SMEŠ/NE SMEŠ.

Družbene zapovedi,

ki jih namesto moralnih spreminja vsak bedak,

kot se mu zazdi.

Skozi sistem bila mi je naložena prtljaga (veliko) neuporabnega znanja,

ki se je pridružila še težji prtljagi družinske drame in traume.

Tako sem nevedna se naučila,

kako ohranjati lastno bit v zaporu lastnega "telesa",

oz. bolj nematerialnega "miselnega" telesa.

Globoko me je moralo strest življenje,

da, kot ujetnik v Platonovi votlini,

sem opazila,

da so med rešetkami reže skozi katere lahko gledam resnico.

In tradicionalna mišljenja globoko zakoreninjena

ter močno zapečatena s strahom,

zame izgubila VES so pomen,

in postala GNUs.

Najbolj smešno v vsej tej pripovedi pa je,

da človek, ki je sam za rešetkami,

ter nezavedajoč, da je tako rekoč tudi "neveden",

se spravi učit kaj je prav in kaj ne,

iz lastne črne luknje.

In zavedaj se,
ne krivim njih, katere so jih uspešno porobotili,
temveč krivim sistem, ki iz nas robote dela.

Poleg tega pa,

tisti, ki se tega zaveda,

mu je potekel status sužnja.

In si ne moreš več zatiskati oči pred resnico.

 

伝統的な社会の束縛に閉じ込められ、

生家の水門のために、

生家?いや、「物質的」ではなく、

子供の想像力を乾きつくし、活気を制限し、

命を支配しようとする考え方のことよ。

その残りはロボットの身体につき入れ、

次の言葉を聞かせられる:

これはだめ/これはいいという。

社会的な戒め、

道徳的ではなくあらゆる愚か者によって

好きに変えられる戒め。

システムを介して、(多くの)役に立たない知識の荷物が積み込まれました。

家族のドラマやトラウマのさらに重い荷物に加わりだった。

とても無知だった私が、

自分の「体」の刑務所にいる自分、

または、無形の「精神的な」身体を保つ方法を学んだ。

人生は私を深く揺さぶったに違いない。

プラトンの洞窟の囚人のように、

格子の間には真実が見える隙間があることに、

私が気づくしかなかった。

そして根強く恐怖でひどく封印された伝統的な考え方は、

私にとってすべての意味を失い,

嫌悪になってきた。

 

しかし、この全体のストーリーの笑い話は、
格子の後ろにいる人が、
自分がいわば「無知」でもあること自体に気づいていないくせに、
何が正しいか、何が悪いかを、
独自のブラックホールから教えている。

 

そして覚えておいてください。
私は彼らを首尾よく奴隷にしたことについて彼らを責めません。
しかし、我々をロボットにさせるシステムのせいだと思っている。

 

加えて、
これを分かっていたら
奴隷状態は期限切れになった。

そして、もはや真実に目をそらせることができません。

f:id:My_ego_talking:20200729162345j:plain

ラファエルの「アテナイの学堂」。 → バチカン宮殿にあります。

Rafaelova "Atenska šola". Nahaja se v vatikanskih muzejih.

 

弟に注意された小さな出来事

今日は弟からいきなり電話がかかってきました。普段は電話しないので、何かあったのではと思いました。話の流れは次のようでした:

 

弟:日焼け止めクリームを持ってる?

私:持ってないよー。外でバイトだから必要なの?

弟:うん。

私:高いよね…

弟:そう!もー、お金ないし。

私:お金ないってどうしたの?なんで?

弟:(非常に怒った声で)「なんで?」ってどういうこと!?その質問、何を言いたいわけ?

私:え?何も。何で、そんなに怒鳴ってるの?

弟:あんたの声、気に入らないから。いつも文句あるんだ。

私:えぇー!何で、別にそういうつもりじゃなかったの。普通に聞いただけなの。

弟:嘘ばっかり。どうでもいい。もういいや。

私:えっ、ちょっと待って。聞いただけなのよ!

弟:分かった。もういい、行かなきゃ。じゃー、また。

 

戸惑った気分になりました。私は悪くないと思いこんで、さっきまでやっていたことに戻りました。けれど、しばらくして、私の「お金ないってどうしたの?なんで?」という質問の無意味さに気が付きました。彼は家族ですが、私は彼の個人的な問題をほじくり出す立場ではありません。もし言いたいことがあれば、自ら言ってくれるはずです。

どんなにその質問で彼のことを判断するつもりはなかったと思い込んでも、自分と正直に対話したら、判断がその質問自体に含まれていることに気づきました。それに、さっきの言葉を無意識に言ってしまいました。こうした「無意識」の発言をどれぐらいしているのだろう。私のせいじゃないように思い込んで、実際に周りにある/いる物事をすでに判断してしまっているのかもしれません。

 

そう気づいたら、弟にすぐに連絡して謝りました。彼も、「キツイ一日だった」と私に言ってくれました(それが怒りの原因だったとわかりました)。

 

こんな風に意味のない質問を他の場所でもしいるだろうかと考えました。本当はあまり興味がないのに、会話を続けるためだけに、内容は何でもいいから何かを聞いています。後は、久しぶりに出会った人に最初にいう言葉に困ったことをごまかして、結局は「お元気ですか」と聞いてしまいます。「今日のお天気はいいですね」とか。笑ってごまかすことが多いかもしれません。誰にもあり得ます。世間話。もし、実際に自分に素直に反応したら(例えば、言葉が出てこなくて、沈黙が続く場合)、逆に相手がびっくりさせてしまうかもしれません。それとも、一般的に期待されている反応がなくて、居心地が悪くなります。相手が心地いいために、私が努力しなければなりません(逆もあります)。だから、フェイクスマイルでごまかしたり、結局、会話を努力しなければならなかったりします。話すって疲れますよね。それより二人が静かにお互いの存在を感じるだけでも、実は会話は成立するのになぁ。会話というのは言葉だけではありません。静けさの中で隣の人と落ち着けるというのはお互いの存在を認めることではないかと思います。だから、その沈黙が言葉よりものを言うのではないだろうか。

 

また、お互いにごまかさずに、物事を簡単に言えば、楽な世の中になるかしら。

 

悪夢

夢の中で夢を見た。

「…友人と一緒にいて、いきなりとてもクタクタになって、道路においてあった足の短いソファに寝転がった。友人が心配して、私が寝静まるのが普通なのか周囲の人達に聞いていたことが最後の記憶だ。」

夢の中の夢。
「…
どこかに空に届きそうなくらい高いビルがあった。そこでとある人達のグループに「毎日一時間だけでも一人で静けさの中に過ごすのが大事だ」ということについて話して、その部屋を走り去った。綺麗な自然のあるお庭に着いた。そこを通って彷徨いながらビルが終わるところまで歩いた。見渡す限り霧が広がっていた。風が強いことにも気づいたが、そのまま歩き続けた。最後のビルから野原に行こうとしたら、突然、両腕両手が風に捕まえられた。私が立っていた芝生が視界からどんどん遠ざかっていた。これはやばいと思って、体勢を変えようと肩と腕を動かしてみたが、いわゆる「風」のグリップが私より強かった。しかし、一生懸命やったら風が地面に降ろしてくれた。一瞬自由になったと思ったら、次の一陣の風は肩と腕だけでなく、声も出せないほどだった。叫ぼうとしても、蚊の鳴くような声すら出なかった。身動きの取れない体の中で気持ちがとても乱暴になった。できる限り抵抗しようとした。だが、その瞬間に、もしその風と戦わず、体の力を抜いてそのままにしておけばどうなるだろうと思った。そうして体から力を抜いたら、その風の存在も一気になくなった。」

夢の中の夢が醒めて、次に現実に目覚めた。

 

たまに、夢で何か、あるいは、誰かに襲われる。時々自分の体が動きかねる、何かに取り憑かれて動けない、叫びたいのに声が出ない。両方の場合で極力努力しても結局は成功しない。たまに、あるものを恐れすぎて、竦んでしまう。夢で感じる感情がそのまま無意識のところから表面に持ち上げられる。起きたらまだ夢の中にいるような気がして、寝ボケがとても強い。ただし、今日は初めてその「風」、いわゆる「悪いやつ」と戦うのではなく、メッセージがあるかもしれないから、そのまま襲わせようと思った。目覚めたら、もちろん衝撃を受けたが、もしかしたらそれがもう一人の自分かもしれない。その自分が私に言いたいことがあるけど、意識している私が耳を澄ませることすらしないのだ。これから無意識のところ、夢の中でも出来るといいね。

 

 

f:id:My_ego_talking:20200611024731j:plain

綺麗な夜空

 

孤独さを全体的に感じてみたら

孤独さって、人が周辺にいてくれても、感じられるのだ。誰にでもありえる感情だと思う。以後は、自分の経験に基づいたことについて話す。


孤独さは、中身の不安定を示している。その不安定があるため、我々が様々な物事に依存する、あるいは、執着するようになってしまう。例えば、家族の関係性がとってもよくないのに、そこにちょっとした安全感があるから、我慢しながら実家に残ってしまう。彼氏や彼女と一緒にいて苦しいけど、独りぼっちになるのが怖くてその人から離れられない。喜びや幸せのような、世間ではプラスのイメージのある気持ちへの志向のせいで、我々がいわゆるマイナスのイメージのある気持ちを抑えたり、見ないふりをしたり、その存在を否定したり、気を紛らすため、時間つぶしに何でもやったりする。両方共が同時に共存しているのは当然だけど。


私も孤独さがどれだけ偉大な気持ちになれるのかを今経験しつつある。ただし、その気持ちが自由に「動ける」ようにしたのはつい最近だ。それで身体があまり心地がいい状態じゃないけれど、抑えるよりよっぽどメンタルにいいわけだ。そこが大事になる。孤独さに全体の注意を向けてみると、これまで気づかなかったことがほとばしる。様々な質問に向き合った。

自分にとって必要な瞬間に、安全を与えてくれる人間や物事が側に居ないと苦しいわけだ。しかし、物事は無常だし、人もそれぞれ自分のペースの物だし。

その時に「一人でいられるの?」「自分で楽しく時間を過ごせるの」?


その孤独さと一緒に座ってみた。次が独り言…


「自分のことを大切にするということは、自分が他の人に劣らないということだ。自分と共に遊ぶ。そして、他の誰かが遊びに参加する必要性がないこと。 それと同時に満足感。「生命」という奇跡的なモノのルールを自分で書く。他人の物語は、本物であろうが架空のものであろうが、単なる物語に過ぎない。なぜなら、自分自身が体験したことでも、感じたことでもないので、他人の口から飛び出る言葉の裏に何が存しているのかを知ることは出来ないというわけ。その物語が自分にとって適切ではないかも。」


このようなことを理解したら、何も必要ないことに気づき、ただ勇気から手綱を取り、道を歩むだけだ。

 

f:id:My_ego_talking:20200527035948j:plain

最初の一歩:バナナパンを焼けた~!

f:id:My_ego_talking:20200527035940j:plain

 

自由さ

「こうしたらいいじゃないの?」

 

「何で私が言う通りにしないの!?」

 

「あなたがやることが無駄だ!」

 

「お隣さんがあなたと比べて…」

 

「私が言うことを従いなさい!」

 

「あなたのせいで私が笑われるんだ」

云々…のような心配。

 

失敗する権利は私にはないのでしょうか。
自分でやってみても駄目でしょうか。
自分で感じて、物事を自分の体で確かめていくのは人生の無駄遣いなのでしょうか。

 

 

このままだと、「私」は…

まるで、犬みたいに鎖でつながれているようだ。
まるで、バッグに飾られているお守りにすぎない。
操り人形のように、自分の考えや感情は見落とされるみたい。

 

 

私は子供ではありません。子供であっても、気持ち、希望、世界の経験の仕方は誰も知らないことだ。世界中の人々に、同じ考え、経験がある人は二人といないはずだ。両親であろうが、祖父母、あるいは保護者であろうが、「私」の人生は他の人、誰かの物ではない。私のでもない。命は手で持つ物ではない。しかし、それは他の話になるので、ここまでにする。

 

要するに、各自本業を守るべし。 他の人が私の感じている、考えていることを理解できるわけがないのだから、私に一番適している道も知るわけがありません。だから、他の人が私のために一番いい道ややるべきことだと思っていることは、ただただその人の自己利益に過ぎないわけだ。
アドバイスされる相手はそれを聞いてどう感じていると思いますか。
やっていること、アドバイス、相談、口から飛び出している言葉は、ただの操りなのではないでしょうか。
自分がなぜそういうことを言っているのか理由は知っていますか。
自分のためだと気づいていますか。
自分も自我に騙され、操られていませんか?
環境や人に"依存"しているとあなたを騙そうとしている自我に気づきましたか。
自分のためにその瞬間に一番適していること、方向、歩むべき道は自分しか知らないことだ。

 

家族は一番身近な社会集団だ。しかし、子供は両親の物ではない。子供は親の延長でもない。

 

コントロールは肉体的だけでなく精神的にも行われる。

もし肉体的に自由(国というものが存在している限り、自由な人がいるわけはないけど)で、どこにでも行けると思っているかもしれない。ただし、本当は中身は条件づけられている。子供は周りにある情報、環境や家族の言っていると感じることを雑巾が水を吸うように吸収する。だから、あなたの考えがあなたが生まれ育った環境の考え方に染み込んでいないかを考え直した方がいいのではないか。体に見えない荷物がついていないかをチェックしたの?

 

その荷物はとても重く、引きずっているし、いらないものだと思う。それに気づいていくのは、ある意味で強さの証だ。

 

f:id:My_ego_talking:20200521043107j:plain

自分の道に行かせてほしい