自由さ

「こうしたらいいじゃないの?」

 

「何で私が言う通りにしないの!?」

 

「あなたがやることが無駄だ!」

 

「お隣さんがあなたと比べて…」

 

「私が言うことを従いなさい!」

 

「あなたのせいで私が笑われるんだ」

云々…のような心配。

 

失敗する権利は私にはないのでしょうか。
自分でやってみても駄目でしょうか。
自分で感じて、物事を自分の体で確かめていくのは人生の無駄遣いなのでしょうか。

 

 

このままだと、「私」は…

まるで、犬みたいに鎖でつながれているようだ。
まるで、バッグに飾られているお守りにすぎない。
操り人形のように、自分の考えや感情は見落とされるみたい。

 

 

私は子供ではありません。子供であっても、気持ち、希望、世界の経験の仕方は誰も知らないことだ。世界中の人々に、同じ考え、経験がある人は二人といないはずだ。両親であろうが、祖父母、あるいは保護者であろうが、「私」の人生は他の人、誰かの物ではない。私のでもない。命は手で持つ物ではない。しかし、それは他の話になるので、ここまでにする。

 

要するに、各自本業を守るべし。 他の人が私の感じている、考えていることを理解できるわけがないのだから、私に一番適している道も知るわけがありません。だから、他の人が私のために一番いい道ややるべきことだと思っていることは、ただただその人の自己利益に過ぎないわけだ。
アドバイスされる相手はそれを聞いてどう感じていると思いますか。
やっていること、アドバイス、相談、口から飛び出している言葉は、ただの操りなのではないでしょうか。
自分がなぜそういうことを言っているのか理由は知っていますか。
自分のためだと気づいていますか。
自分も自我に騙され、操られていませんか?
環境や人に"依存"しているとあなたを騙そうとしている自我に気づきましたか。
自分のためにその瞬間に一番適していること、方向、歩むべき道は自分しか知らないことだ。

 

家族は一番身近な社会集団だ。しかし、子供は両親の物ではない。子供は親の延長でもない。

 

コントロールは肉体的だけでなく精神的にも行われる。

もし肉体的に自由(国というものが存在している限り、自由な人がいるわけはないけど)で、どこにでも行けると思っているかもしれない。ただし、本当は中身は条件づけられている。子供は周りにある情報、環境や家族の言っていると感じることを雑巾が水を吸うように吸収する。だから、あなたの考えがあなたが生まれ育った環境の考え方に染み込んでいないかを考え直した方がいいのではないか。体に見えない荷物がついていないかをチェックしたの?

 

その荷物はとても重く、引きずっているし、いらないものだと思う。それに気づいていくのは、ある意味で強さの証だ。

 

f:id:My_ego_talking:20200521043107j:plain

自分の道に行かせてほしい